ジョーカーを観た2〜ジョーカー感想文〜

主人公アーサーは、安アパートに介護を必要とする母と二人暮らしで、コメディアンを目指し、道化師の仕事を細々とこなしながら生計を立てていた。

幼少の頃受けた虐待によって後遺症があり、普通生活の中で精神的に抑圧された時、状況に関わらず大きな声で笑ってしまう脳の病気を抱えて生きている。

人に叱責された時、緊張した時、
TPOに関係なく所構わず笑うものだから、人々に不気味がられる。
そんな自分を心の奥底にしまい込むように、主人公は必死に自分の病気と格闘しながら笑顔を生み出す事を生きがいにして生活していた。

ある日、職場の道化師の斡旋所で、彼を不気味に思う同僚が彼を追い出すために彼を陥れる。
アーサーは暴漢に襲われ、その者の思惑通り職を追われる事になる。

その事がきっかけとなり、彼は自分の内に秘めた闇をゆっくりと世の中に向けて爆発させていく。
と、これがこの映画の出だし。

彼の幼少時代から現在まで、がんじがらめになりながら溜め込んできた心の闇は凄まじくて痛々しい。

彼の後ろ姿は印象的だ。
孤独、貧困、病気…それらから現実逃避して頭の中で都合の良い事を夢想しながら、みすぼらしい格好で歩く彼の後ろ姿。
それは映画を観ているものにとって、忙しない現代、一歩間違えば自分もいつかアーサーのようになるのではないかと思わせられる。
または自分は周りからすでにそう思われてやしないか?と疑心暗鬼になりゾッとさせられた。

現代社会を生きる人に、誰でもアーサーは当てはまる、と思わせるところにこの映画の怖さがある。

主人公アーサーの精神を病んで暴走していく姿は、”恐ろしいけどこんな人いないよね”という現実離れしたものではなく、”目を覆いたくなるような現実そのもの”のような気がした。

アーサーの存在がフィクションだと思わせないのは、主演のホアキン・フェニックスによるところが大きい。
インタビューでもホアキン・フェニックスが語っていたように、彼が”精神に大きな苦痛を感じるほど役と向き合い入り込んだ”結果、功績だろうと思う。

その点、クリストファー・ノーラン監督作品『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーは、それまでのジョーカーのコミカルでアブナイ犯罪者像を一変させた最大の功労者だが、猟奇的で残忍、この世のものとは思えない恐ろしさの中に、エンターテインメント性も併せ持っていた。
(因みにダークナイトは、第81回アカデミー賞2部門受賞)

“エンターテインメント”とは、ある意味どこか他人事に感じるように仕上げる技術の事なのではないかと思う。
しかし、だからこそ人々は安心して楽しめる。「だってこれは映画だから〜」と。

この『ジョーカー』は、エンターテインメントに置き換える事なく、現実に起こりうる出来事の延長線上に作られた作品だと思った。
だからこの『ジョーカー』は痛々しく、
“キツかった。”

目覚めた時、妙に生々しい質感の悪夢をみた事がある?

この映画はまさにそんな感じだ!